令和

あらゆる情報に惑わされることなく

確固たる自分の存在意義を持ち

それなりに強く生きていけたらと思う

誰とも比擬する必要のない穏やかさと没頭するための情熱

慎重に、けれども軽やかな足さばきで

 

 令和になりました、エポックだ

なにはなくとも恙ない日々を

 
 
 
 

Madewell Loafers

パイソンが好きです。とにかく靴に目がありません。
最近よく履いているのはMadewellのローファー、一目見た瞬間にこれは私が買わないでどうするという気持ちがとどまらず、試着せずに靴を買うのはかなりの冒険であることは間違いないけれどこの見た目とこの値段ならとカートへ。

どうですか、強そうでしょう。
パイソンでもこだわりがいくつかあって、まずは絶対白ベースであること。ベージュとかブラウン系だと肌の色と相性が悪すぎて、「私の足はツチノコだったのかな?」と思ってしまうくらい黄色っぽくくすんでしまい大惨事になります。あとはコントラストが強めで柄が程良くくっきりしていること。これはくっきり具合がほどよく分散しているのが子供っぽくならないポイント。甲が白っぽく抜けているのがナイスなんです。それからいわゆるプリントのものだったりするとゆるすぎて古ぼけたレースのような雰囲気に見えてしまうので注意。パンチ強いほうが絶対にかっこいいです。

そして肝心の履き心地ですが、足を入れた瞬間に驚きました。
甲が深いものは爪先にひっかけて歩くからいいか、と実はあんまり履き心地にまで期待していなかったローファー。踵全体をフワッと全方向から押し上げてくれて、まるで低反発の枕に頭を沈めたような感覚でした。踵が丸い〜!と思わず叫びたくなるくらい。踵が小さめで抜けがちなので、全方位から踵にフィットすることってあんまりないからびっくりした。同じタイプのものを追加で購入しようと思ったらマイサイズ完売だったので諦めたけど、本当にそれくらい抜群に心地良いです。白、欲しかったのにな〜。

パイソンが好きだからといってパイソンの服も着るかと言われると、いいなあと思っても手は出せません。多分、顔とのバランス、完全に蛇に食われてしまう。そんなわけで一番遠い、靴くらいの距離にいてくれるのがちょうどいいんだと思います。

あと何がいいって手持ちの服との相性が最強にいいこと。黒とかネイビーのトップスにデニムとかグレーのスキニーが多いので、白っぽいパイソンは足元を明るくしてくれる。タイツとか合わせるより素足で履くほうが力が抜けて見えて、何気ない普段着っぽくて好き。

あと何年もパイソンの靴ばかり履いていたら、いつのまにか私のトレードマークになったりするかな、なんて思いながら今日もパイソンを履いてパイソンを探す、根っからのパイソンシューズハンターです。

Madewell The Frances Loafers

 
 
 
 

Aesopからクレンジングミルクが出たよ

というニュースレターを受け取ったその日に私は店頭に立ち寄り確保しました、その名もジェントルクレンジングミルク。なんて心惹かれるネーミング。

声をかけてくれたお姉さんに「あの、メールを見て、クレンジングを、」と言いながら心の中で(すっごいファンみたい、いやそうなんだけどでもちょっと恥ずかしいね)と自分に突っ込みつつ、発売日当日に駆け込むあたり声高らかにAesop信者ですと宣言したい気持ち。

前置きはそれくらいにしておいて、クレンジングミルク待ってました〜!Aesopのクレンジングというとオイルやジェルが中心で、サンプルもいくつか使ってみたけれど購入にまでは至っていませんでした。クレンジング、大事だし難しいですよね。私は過度な肌荒れ期にがっつりコンシーラーをジェルクレンジングで落とそうとしていて惨敗したり、張り切ってエイジング系のものを使って栄養過多すぎなのか赤ニキビ勃発したり、今もスキンケアについてどうこう語れる肌ではないので使った感触メインの記録です。

いつもクレンジングはミルクとオイルをそれぞれ気分で選んでいて、それぞれとても気に入っているので特に血眼でクレンジングを探していたというわけではないのですが、このニュースレター開いたら駆けつけないわけにはいかないでしょうというほどの吸引力。

 

 

軽く振ってから500円玉くらいを手にとって肌に塗布し、軽くマッサージするように馴染ませます。クレンジングしているというよりは、乳液でマッサージしているというほうが近いかな、絡め取るような感触はあまりなかったのでクレンジングとしてはマイルドなほう。ポイントメイクは別で落としておいたほうがよりこのミルクを堪能できます。

新しいものを試す時は、洗い流している感覚がこのクレンジングが好きかどうか判断する大きなポイント。これはどうかなと楽しみにお湯で流し、肌が直に触れるくらいまでなった時、頬の上で指が止まりました。「これは!肌がふわふわ!さっぱりしていてふわふわ!」

とろみのあるミルクで肌に馴染ませやすく、Aesopならではのウッディーな香りも健在、敏感肌や乾燥肌の人におすすめというのも納得。ダブル洗顔も不要です。洗い流したあと肌から水分が蒸発するような感覚もありませんでした。かといって重いわけでもなく、本当にふんわりした手触り!

洗浄力の強いクレンジングを使ってから湯船に浸かっているとどんどん水分が飛んでいき水を含ませる前の激落ちくんみたいなカサついた肌になる私ですが、これはマイルドな故にそんな心配することも忘れるくらいでした。乾燥肌の人も大丈夫。タオルで水分を拭き取ったあとはしっとりというよりサラサラ、ふかふかと柔らかくなる。
なんだか二の腕の内側を彷彿とさせるような肌触りで、ちょっと感激。

Aesopのお店に行った帰りは必ずといっていいほど何かが回復しているので、個人的にはパワースポットと呼んでいます。あの素敵な内装と落ち着く香りが人を鎮静する作用があるのか。ゆとりある空間にボトルが一斉に陳列している様子も好き。使い終わった瓶も捨てられず、並んでいるのを見て私はこれだけ摂取したのか、となぜか誇らしい気持ちに。このクレンジングミルクも多分使い終わったら大きいサイズを購入する気がします。

クレンジングもあれこれ使い分けられると気分が変わるので、戦力が増えて、しかもそれが大好きなAesopでとても嬉しい。お気に入りの中で選択する幅が広がるとなんだか豊かになれるから。

そんなわけでジェントルクレンジングミルクは本当にジェントルだったという報告です。誰だって優しさに肌を委ねたいはず。もう委ねちゃっていいと思う。

 
Aesop Gentle Cleansing Milk

 
 
 
 

翻る

そういえば去年の今は面接が終わった頃だったとふと思い出して、冷めたコーヒーを飲み干した。
土曜に病院へ行こうと思って、そうすると丸一日潰れてしまうからじゃあ月曜は有給とろうと呑気に考えて眠い目をこすりながら病院に向かった先に待っていたのはまさかの休館日、呆気にとられて帰宅し、それならば月曜にリベンジするしかないのだと今日も気持ちのいいお天気の中病院へ。大学病院というのは混雑と待ち時間を回避できないものだと痛いほどわかっているので会計及び薬待ちの間は一旦外に出ることにしている。ずっと病院で待っていると疲れるし、気分転換にもなるし、時間も潰せるから。
いつも行くSTARBUCKSでドリップコーヒーを頼んだら「おうちでもドリップコーヒーを飲まれますか?」と聞かれたので「はい」と答えるとなんとサンプルでコーヒー豆を挽いてくれるらしい。なんだか嬉しかったので前から買おうと思っていたコーヒーミントもついでに買ってしまう。親切に弱いね。スタバのコーヒーはおいしい。どの豆を飲んでも違いはあんまりわからないけれど、いつもおいしいと思える。単純な舌で幸せ。コンビニのコーヒーはセブンイレブンが好きです。
ぼんやりと自分の履いている靴のパイソン柄を目で追っていたら、今日が16日だったと気づく。そうだった、去年の月曜に面接したんだった。思い出すと同時に何かに急かされるように残りを飲んでお会計に行かなければと立ち上がった。

あれから一年後、有給とって堂々と休んでいるなんて、想像もしていなかった。
年明けから調子はよくなかったけれど、それでも回復したり戻ったりと地味に一進一退している私。つらいことがないのがつらいなんて生温いことをボヤいていたのも本心で、今の環境で誰も私に何かしらの価値を求めてくることもなく、誰も私にガッカリしたりしないという状況はあまりにも初めてすぎて、正直まだ戸惑いもある。ただいるだけで許されるなんて甘すぎるだろうと。でもきっとその裏には、ガッカリされないのは今誰からも期待されてないということで、期待されていないということは評価するに値しない程度の人間であるという暗黙の事実になっていて、そういう立場はいつでも爪弾きにされるんだと怯えているのかもしれない。
とはいえ今の環境で突然解雇なんて普通に考えてありえないし、環境が私を優遇してくれていることを肌で感じるから、あまりにも真逆な心境に揺さぶられているんだと思う。

いろんなことを思い出すたびに感情が入り組んでぐしゃぐしゃになるけれど、目をそらさず確かめていく。急に、もう一人の自分がやってきて、肩をぽんと抱きながら「ダメなやつだったね、私」と言った。それはあまりにもカラッとしていたので、思わず苦笑してしまうほどだった。過去の欺瞞に満ちた心が自分自身を苦しめていたんだと、ただ単純に思えた。ほんと、ダメなやつだった。

いつだってただ認めて欲しかったんだよな。どこにいても誰といても私の居場所はここじゃないと常に感じながら、それでもあなたは存在しているだけで価値があると、必要なんだと誰かしらに認めて欲しかった。自分の存在だけでは無理だということはもう知っていたから、役に立つことでそういう評価をもらおうとしていた。でも結局、私が出来る範囲のことではいくらでも変わりはいて、あなたでなければと誰にも思われなかった。今はどこにも評価を求めていないから、それがこんなにも気楽なことなんだと拍子抜けしているところ。求めないほうが必要とされている気がするというのも、なんだか酷な状況だよ。
でもきっと、私は母に、あなたは生きているだけで価値があると、ただそう言って欲しかったんだと思う。誰かより優れていなくても、あなたのことが必要だと。

一年前には知らなかった感情がいくつも見つかるのも、萎縮しない生活を送っているからかもしれない。ぎゅっと固く閉じていた心が少しずつ溶けていく様子、絡まったネックレスが諦めなければいつか解けるように、また一年後の変化に向けて望みを捨てることなく、自分にとっての正しさを積み重ねるしかないんだろうな。
そんなふうに思った春の午後、桜はもうほとんど散ってしまっていた。きっと大丈夫、季節だけは忠実に巡ってくるから。また来年ね。

 
 
 
 

揺らぎ

ちょうど一年前、私は大きな転機を迎えていた頃だったので否応なしに色々と思い出してしまう。
すべてを手放す決意をしたのが3月末、転職したのが6月、仕事や生活ペースに慣れるのに数ヶ月かかり、そこから怒涛の社内行事が毎月何かしら続きそれなりに疲弊し、個人的な問題もいくつかあり、12月には引越しをしてそこから師走特有の慌ただしさに紛れて、仕事納めの日の晴れやかさに心を打たれたのが年末。本当の意味でこんなに長い休みがあるのは何年ぶりだろう、と感極まって涙が出た。稼働していないという罪悪感を抱かなくていい休みの尊さ。張り切ってあれこれ予定を詰め込んで迎えた年明け、穏やかさに溶けそうになったのも束の間、そこからどんどんメンタルが崩れていくのを感じた。

不安定になる理由もない日々を過ごしていくうちにわかったことがある。今までだってもちろん精神的に落ちることなんて山ほどあったけれど、そういう自分は求められていないと察していたから誰かの前に立つと当然のようにメンタルを通常レベルに引き上げていた。それはもう息をする感覚と同じで、私にとっては生きるための礼儀であり、落ちた自分を悟られたくないというバリアでもあった。不機嫌な人や調子が悪いのを全面に出す人を見ると、そんな部分をさらけ出しても世界に受け入れられると当たり前に感じている(もしくはそんなこと考えたこともない)のが羨ましいし、同時に恥ずかしいなと傍観していた。
今回の落ち込み具合は実にゆるやかで、今まで経験したことのない、のろのろとした低空飛行をただ続けているような気分が続いていた。出口のない迷路、同じメロディがエンドレスにリピートされ続けているような不気味さだった。
深く突き刺さるように落ちたほうが反動で気分なんて上げやすいのだ。あのころ家で鏡に映る自分の顔はまるで老婆のようだったのに、他人の目に晒されるためにテンションと口角を引き上げて求められる私を演じることである種の満足を感じていたのかもしれない。怒りや嫌悪という感情の対象となる物事や人がいて自分をとめどなく責められるほうが楽だった。わかりやすいから。でも今それがなくなってしまって、行き場のない焦燥感が私を巣食っていることが原因だった。つらいことがないのがつらい。文章にするとバカみたいだけど、事実だった。平和な世界で日々のささやかな喜びを大切に丁寧に生きる。そんなの私には無理だと思った。ささやかな喜びはあっという間に消えてしまう。痛みや憎しみのほうがずっとそばにいてくれるからキラキラと瞬く儚さより信頼出来るし、望めばどんどん増やせて絶えず消えることがない。
笑っちゃうくらい安定している日々の中で自分の輪郭がぼやけていくのを感じ、その穏やかさが侵食系の苦しみとなって現実逃避したくなってしまうこともあったけれど、じゃあどうしたいのと自分に問いただしてみると一年前のざらついた感情には二度と触れたくないということだった。今でもはっきりと覚えている。そう簡単に美化なんて出来ない。それでも、絶対に戻りたくない過去があるということは前に進んだという成果になるんだろう。

わりと鬱々としていた気分を父にぼやいたら、「今の環境に慣れてくるとそれはそれで落ち込みがあっても不思議ではない気がする。あなたの場合、過去を乗り越えていかなければならないので気持ちの整理と次の一歩を踏み出すのに時間がかかると思っています。あまり励ましにならない励ましかもしれませんがのんびりやりましょう。」と返信があり、ああそうかと納得した。今いる場所での浮き沈みがあることを私はあまり受け入れられていなかったけれど、ようやく自分のデフォルトになりかけているからそこで感じるものがあって当然なんだ。どこにいっても何か不安を探してしまう自分の受け止め方が間違っている気がして認められなかった。でもきっと普通のことなんだな。肩の力が少しだけ抜けたのを感じた。

それならもう歯止めをかけることなく感情に従ってみようと試みてわかったのが、心を泳がせておくと移り変わりがものすごく激しいことだった。わずかな希望が見えて大丈夫だと思った数時間後にはもう取り返しのつかない場所にいると暗くなって沈んでいく。その変化が目まぐるしくて、でも自分の不具合に素直になるのが新鮮で、しばらく続けていたらなんとなく落ち着いてきた。誰かの機嫌のために自分の不調を飲み込んで調整する必要なんてないんだよ。

私に手を差し伸べてくれるのはいつだって本、「ミエコのこと」の記事でも少しふれたけれど、観察をつづけるというエッセイにひどく感銘をうけたのも同じ頃。
 
 
“まだ若い頃は、なにか困難があったとき、耐えられないような感情にくるしめられたとき、その渦中にいながらも、少し時間がたてば(あるいは同時に)そこから何を学べるか、ということをおそらくいつも考えていたように思う。そこから何を学べるか。人生に疑いようもなく前方があると信じている人間の考えそうなことですね。何を学べるか。おまえはそこから何を学ぶのだ?それを誰かに試されているような気が、ずっとしていたものだった。
でも今は、こういう状況に陥ったとき、そこから学ぶことには興味がない。
ただ少しずつだけれども確実に変化してゆく感情や状況をつぶさに観察しなければならないとだけ思っている。どんなふうに出来事を忘れ、どんなふうに悲しくなくなり、それがどんな斑をつくり、どんなふうに日常が濃く、もどってくるのか。どんなふうに記憶はうつろい、あらわれ、処理され、忘れ、平気だった暗闇があれだけおそろしくパニックを起こしていたのにやがて平気になり、どんなふうにあんなに混乱していた感情や思い出をふりかえるようになるのか。そこに何の、どのような動きがあるのか。この点にかんしては言葉にあまり期待はできないものだし、ちゃんと書けたと思った時点でそれは駄目になってゆくものだから、せめて自分がそれをどれだけ精確に観察したか。しようとしたか。おまえは観察したのか?それだけを、試されている気がする。

共通しているのは、それを誰かから試されていると思うことだ。
でも誰から?試されるとは?すべて、なんのために?”

(川上未映子 魔法飛行 観察をつづける より)
 
 

私は昔から悲観的になってしまう性質でそれをねじ伏せるように他者からの評価でバランスをとっていたような気もするけど、ある時期からネガティヴに対する嫌悪とそういう自分を求められていないという他者目線が加わり、ポジティヴ路線への変更を余儀無くされていた。もちろんそうなれたらいいのにという憧れもあった。でもどこかで窮屈だった。無理してんな自分、というのを昔の文章を読んでいても感じることがある。
「つらいことにはきっと理由がある、と考えなければならない、つらいことが起こった原因と乗り越える意味を明確にして噛み砕いてこそ、そのつらいことが私を成長させてくれる、意味のあることになる、そもそもつらいと感じる私が間違ってるのかもしれないのでもう一度本当にそれがつらいのか、相手がつらくさせようと意図的なものなのかちゃんと考えて」という長っったらしく鬱陶しい思考を植えつけていたので、そしてまあつまらないほどに真面目なものだから全てのつらいことに対してそれをあてはめてしまっていた。事あるごとになぜ私はこんなにも試練が降り注ぐのか、それほどまでに駄目な人間なのか、などと考え込んでしまう。それがもうつらい。

穏やかな生活を続けることで、ようやく気づいたことがある。世の中にはかけられるべきではなかった言葉や抱く必要がない感情なんてのが溢れている。なにもかもに意味があるなんて、そんなわけないだろう。
無意識に吐き出された言葉だって受け取り側からしたらひどく狼狽してしまうことも、すべて受け取り側の問題なのだろうか。攻撃になってしまっていることに気づかない人が他者に対しても同じことを普通と思って投げつける。跳ね返す力がなかったとしたら、力不足だと一瞥をくれて終わる。それは正しいのか?それが正しいのか?
何をどこまでどう受け取るかなんてさじ加減は人それぞれだし、簡単にギアチェンジなんて出来ないけど、それでも起こることすべて自分にとって意味があると都合よく考えるポジティヴシンキングなんてのは生まれ持った性質であり無理してするべきことではないのだ、とミエコが教えてくれた。

すべてを忘れて、つらかったことを風化させて、糧になったことだけ自分の中に残すなんて、私にはそんな器用なこと出来ない。幾度となく経験した、あまりにも強い不安や孤独、この先に起こりうる恐怖から心臓が冷えて真っ二つに割れて一目散に両足の爪先に滑り降りていく感覚なんて、二度と思い出したくないけれど絶対に忘れられないのだ。でもきっとそういう気持ちを持ち続けていくからこそ、忘れられないからこそ、今そばにいてくれる人たちの存在をより身近に感じられたり、新しく出会う人たちに対して柔らかな思いやりをもって接することが出来るのではないだろうか。

だから私はちゃんと観察しようと思う。
心の弱さを掌握し、それを恥じることなく自分の一部だと認識すること。
どんな気持ちも誤魔化さず、心が揺らぐことにも正直に、無理に回復を望んだりすることなく、偽りのない生活を続けていくことで自分の内側に起きる変化を。
願わくば、少しずつでも過去の感情が均質化されていくことを。