03_J&M DAVIDSON 一択

お財布の話です。
毎日何度も手にするものだし、入れるものがお金だったりするのであまり妥協は出来ないアイテム。だからといってブランドであればいいってものでもないし、プチプラで気に入っていたとしてもすぐへたってしまったりなど、何を選ぶかも含めバランスが求められるもの。それにお金は流通しているものだからこそ丁寧に扱いたい。あとお財布見るとなんとなくその人自身が映し出されてしまうような、部屋と似たような感覚で、領収書でパンパンだったりとかカードの量感、朝いくらお財布に入っている状態で家を出たか等々、ちゃんと管理している人はしているし、しなくても問題ない人もいる。人それぞれのお財布事情。

初めて長財布を使った時の便利さに驚いて以来、ずっと長財布派を貫いています。
一番長く使っていたのはChloeのMARCIE、ブルーグレーのような色を確か5年以上は使っていました。そのあと一度買い換えたけれどあまり馴染まず、去年探して見つけたのがこのJ&M DAVIDSONでした。
見た瞬間から「いやもう絶対私これ」という直感で、比較するものなしという状態で購入。
上の写真が購入したばかりくらいのもので、下は最近の状態です。

けっこう雑に扱ってしまうけれどあまり傷などは目立ちません。収納力も抜群で何の問題もなし。他の長財布と比べて縦の長さがあるので、通帳をいれてもストレスなく開閉出来ます。満足度があまりにも高いと、他のお財布が目に入らなくなるんですね、これは初めてのことでした。素敵なものを見てもいいな〜とは思うけれど実際に欲しいなとまでならない。次買うんだったら〜みたいな妄想もなし。「え?次もDAVIDSON買いますけど?」と心から思ってます。完全にLOEWEのキーケースと同じ状態。

J&M DAVIDSONデビューは実はこっち。スモールジップパースです。
クロコの型押しでこの色、一目惚れ。とはいえ長財布以外の選択肢はなかったし、そもそも長財布でクロコって所持金1000円とか許されないだろうという気持ちで年収がいくら上がったとしても自分には似合わないだろうと思うのですが、この手のひらサイズなら!!許されるだろう!!(誰に?)と思ってこちらは迷いに迷って購入。

クラッチバッグの時とか便利なサイズだし、身軽に出かけたいときは入れ替えて使っています。本当に必要なカード数枚とお札くらいで事足りる。
とにかく色が好きすぎる。細かいこというと、ファスナーの色まで良すぎる。内側とのバランスも最高。毎日使わないからこそ、いまだに使うたびテンション上がるアイテムです。

J&M DAVIDSONの好きなところ、箱の高級感。ロゴ入りの薄紙。もはや薄くない。開けた時の高揚感がダントツです。いいもの買ったわ〜と商品たどり着く前に一回満たされます。そういうの大事ですよね。

自分にがっつりハマるものを見つけると余計な物欲も跳ね返せるようになります。
この二つの最強アイテムがあるので、どんな素敵なお財布の誘惑にも負けません。
迷う隙さえ与えない私のJ&M DAVIDSONのお財布たち。

 
 
 
 

綴る

ブログというサービスは日記の延長であり、誰かに見せるためではなく自分の記録のためこっそりしたためるものだったのに、いつのまにか発信するツールになっていることに今でもたまに驚いてしまう。自分が公に文章をさらけ出しているという羞恥心が消えないからかもしれません。もっとも、誰にでも見られてもいいようなものとして更新しているので問題はないのだけれど、ほんの一部分だとしてもそれが私の知らないところで私として認識されているのかなと思うと不思議な気持ち。

文章を残すところがあってよかったなと思うのは、散らかった頭の中が整理され、渋滞が緩和されること。そして誰かの目に触れる可能性があると意識すると、あーでもないこーでもないとパン生地をこねて成型しているような感覚で、書き終わったと思えた瞬間はそれなりの達成感が漲るわけです。それがたった一文でも。というか文章が短い方が難しいよね、印象が強いから。
誰のために書いてるかっていえば自分の整理整頓方法というのが第一で、それから誰かしらが見てくれるかもしれないという緊張感もいい影響となり、なんとなく体裁を保っている気がする。自分しかみないところの文章はとてもじゃないけれど公開なんて出来ません。自意識過剰なのかもしれないけど、むしろネットで晒す一部分でダメなところを滲ませる意味が私にはわからない。わずかな部分なんだからかっこつけたっていいんじゃないかな。自己表現に必要なのはまず自己満足です。誰にも求められていなくても、溢れ出てしまうもの。

 
小説以外の小説家を垣間見れるような書籍が好きです。書くインタビューは佐藤正午さんと編集者とのメールのやりとりで進みます。佐藤正午さんという人は、私の中ではもはや次元が違う小説家というか、アドレナリン発生装置のような、平伏したくなるほどの小説をうみだす人で、こんな緻密なプロットを一体どういう人が書いているんだろうと不思議でしたが、これを読んで納得しました。とてつもなく細かく、誤解を恐れずに言うとめんどくさいです。でもどこかでわかる、と思ってしまうのです。単語の相性とか、接続詞ひとつで、色合いが変わってしまう。私は佐藤正午さんという人の醸し出す波長がものすごく合うと感じているので、小説を介さない佐藤さんの言わんとすることもなんとなく理解できるような、言葉がすんなり染み込むような気がします。

 
 
「こんなものを書いて、原稿料をいくら貰っているのか知らないけれど、もっと真面目に小説を書いてください。
 
こんなもの、と手紙の差出人は書いていました。そう読まれたのは、その人のセンスに僕の作家としての力量が負けたのかもしれません。でも、いま僕がしているのはそんな勝ち負けの話ではありません。誰かと勝負するために人は物を書くわけではありません。こんなものでも、どんなものでも、最後の一行・一句まで書きあげた文章は、書きあげた人にとっては、ひとつの勝ち、せいいっぱいの力を注いだあげくの勝ちだと思うのです。このていどでいい、と最初から思うなら、そう思った瞬間、物を書く張り合いは消えてしまうでしょう。生き甲斐のない人生のようなものになるでしょう。それが言葉のみ存在する、楽できる仕事です。そんなもの僕は、というか書く人は誰も、望んではいないと思うのです」
 
(佐藤正午 書くインタビュー3 より)
 
 

とりわけ印象に残った部分、これを読んだ時どう感じますか?
私は“そう読まれたのは、その人のセンスに僕の作家としての力量が負けたのかもしれません”というところで脱力しました。
“こんなもの”という差出人に対して、彼のセンスに自分は達していなかったとごくさらりと述べてしまうところ。こっち側からしたらあれほどまでの文章力がある人にむかって、とてつもない小説家に対してなんたる無礼を、素晴らしさがわからないのであれば黙っとけと怒りに満ち溢れてしまうけれど(ファンだから)、佐藤さんは差出人のレベルを真っ向から否定することもなく、要するにあなたの求めているものではありませんでしたね、と一度受け止めて返している。そういう人が書く文章だからこそ、横柄な欠片が見当たらず、繊細さが半永久的に続いていくような、そんな小説が作り上げられるんだろうなと納得しました。もちろん手紙は好意的に受け入れられたわけではなく、きちんと破られています。そういうところもわかるなあ。人間味。

一個人が発信するブログだって誰かにとってはこんなものと受け取られてしまうこともあるかもしれません。それでも、書けと言われていないのに書いてしまうものに対して、そこには各々の力が満ち溢れていて、誰かにとって無駄なことに力を注ぐ自分だけの素晴らしさを、そのツールを手に入れていることに、ひどく満足感を得るのです。そう、まさに、こんなものでも、どんなものでも、私は真剣なのです。

文章を書くことが好きだなんて言えません。書かなくていいのであればそうなりたい。文字が頭の中を回らない生活が出来るのならそうしてみたい。でもポイントを定めて、あーでもないこーでもないとパン生地をこねるのは楽しいです。膨らむか、膨らまないか、一か八かみたいなところもある。
ふと読み返した時これらの記事にいったいどのくらいの時間と労力をと思わないこともないですが、自分にとってきっといい作用がある行為の結果なんじゃないだろうかと結論づけてこの記事は終わりです。

このページを訪れてくれたあなたへ、一点の曇りのない感謝をこめて。
私は元気です。これからも言葉で武装して、息を繋いでいくつもり。