言葉の力

立ち寄った書店で平置きされていた文藝春秋を見て、思わず手に取った月曜の夕方。表紙には芥川賞発表の文字。私は選評を読むのが好きです。なのでいそいそとページをめくったら異常なことが起きていた。あんなにも蒸し暑い日だったのに、鳥肌が止まらなかった。嘘だろう、と思うでしょう。本当です。

概要を説明すると、候補作のひとつに古典でもない小説が参考文献としてあげられており、要するに出版されていない小説が資料のひとつになっていて、そちらを読んだ選考委員の意見が赤裸々になっているというわけなんですが、私が見てきた中で一番荒れていた。選考委員同士の意見がわれてぶつかり合う荒れ方とは違い、文学ってそういうことじゃない、という圧倒的な哀しさが存在していると私は思った。
中でも川上弘美さんの選評がものすごかった。柔らかで温厚な印象の川上さんにここまで言わせるなんて、信じられなかった。震えるような怒りが溢れていた。圧倒的に生々しく、私は疲れてしまった。パワーがものすごかった。川上さんにこんな感情を抱かせたことが許せなかった。楽しみだった選評も、なんだか怖くなってしまった。言葉が持つ力の重さに、改めて驚いた。
参考文献になった小説を書いた方はTwitterで「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません」と発信していたけれど、それはそれでなんだかやるせなくなった。そんなこと、小説を書く人に言わせないで欲しい。

生きる上で物語が必要な人たちがいて、同じように必要じゃない人たちもいる。必要ない人からしたら小説はただの「作り話」でしかなくて、けれど必要な人にとってはれっきとした逃げ場なのだ。肩を震わせながら逃げ込んだ人しかわからないぬくもりがある。そういう経験がある人が小説を書くからこそ、厚みのある世界が広がり、文学に対するリスペクトで溢れている。それはどんな文章からでも滲み出てしまうものだと思う。又吉さんの「火花」が文学に歓迎されたのは筆者が完全に文学に救われた人だからであって、その生真面目さと丁寧さ、優しさが文章に注がれていて、文学に対する愛情が込められていた。それは私でも強く感じた。売れている芸人さんだから、話題性のためだけに、賞を与えられたわけじゃない。選考委員の目は簡単に誤魔化せないだろう。文学をあらゆる方向から見抜く人たちなのだ。

仮に文学の住人であれば、この錚々たるメンバーにこれだけの重たい言葉をかけられたら相当頭を悩ませるはず。だって、かなりの、かなりの厳しい言葉が向けられていた。反論もせず、参考文献にも記載してあるし、本人も理解してるし、間違ったことはしていないと何食わぬ顔で今年も取れなかったーなどと平気で悔しがっているのであれば、ものすごい異物だ。異物混入。違う世界の人だったということだ。
でもこのことが原因で、詠美さんとか川上さんとか選考委員が辞任してしまったら、私はそれこそ本当に許せない。詠美さんには都知事ばりに「もうつまんなくなった〜」とか言ってやめてほしいから。

次回の芥川賞は文学の土俵上での選評が飛び交いますように。そう願わずにはいられません。