揺らぎ

ちょうど一年前、私は大きな転機を迎えていた頃だったので否応なしに色々と思い出してしまう。
すべてを手放す決意をしたのが3月末、転職したのが6月、仕事や生活ペースに慣れるのに数ヶ月かかり、そこから怒涛の社内行事が毎月何かしら続きそれなりに疲弊し、個人的な問題もいくつかあり、12月には引越しをしてそこから師走特有の慌ただしさに紛れて、仕事納めの日の晴れやかさに心を打たれたのが年末。本当の意味でこんなに長い休みがあるのは何年ぶりだろう、と感極まって涙が出た。稼働していないという罪悪感を抱かなくていい休みの尊さ。張り切ってあれこれ予定を詰め込んで迎えた年明け、穏やかさに溶けそうになったのも束の間、そこからどんどんメンタルが崩れていくのを感じた。

不安定になる理由もない日々を過ごしていくうちにわかったことがある。今までだってもちろん精神的に落ちることなんて山ほどあったけれど、そういう自分は求められていないと察していたから誰かの前に立つと当然のようにメンタルを通常レベルに引き上げていた。それはもう息をする感覚と同じで、私にとっては生きるための礼儀であり、落ちた自分を悟られたくないというバリアでもあった。不機嫌な人や調子が悪いのを全面に出す人を見ると、そんな部分をさらけ出しても世界に受け入れられると当たり前に感じている(もしくはそんなこと考えたこともない)のが羨ましいし、同時に恥ずかしいなと傍観していた。
今回の落ち込み具合は実にゆるやかで、今まで経験したことのない、のろのろとした低空飛行をただ続けているような気分が続いていた。出口のない迷路、同じメロディがエンドレスにリピートされ続けているような不気味さだった。
深く突き刺さるように落ちたほうが反動で気分なんて上げやすいのだ。あのころ家で鏡に映る自分の顔はまるで老婆のようだったのに、他人の目に晒されるためにテンションと口角を引き上げて求められる私を演じることである種の満足を感じていたのかもしれない。怒りや嫌悪という感情の対象となる物事や人がいて自分をとめどなく責められるほうが楽だった。わかりやすいから。でも今それがなくなってしまって、行き場のない焦燥感が私を巣食っていることが原因だった。つらいことがないのがつらい。文章にするとバカみたいだけど、事実だった。平和な世界で日々のささやかな喜びを大切に丁寧に生きる。そんなの私には無理だと思った。ささやかな喜びはあっという間に消えてしまう。痛みや憎しみのほうがずっとそばにいてくれるからキラキラと瞬く儚さより信頼出来るし、望めばどんどん増やせて絶えず消えることがない。
笑っちゃうくらい安定している日々の中で自分の輪郭がぼやけていくのを感じ、その穏やかさが侵食系の苦しみとなって現実逃避したくなってしまうこともあったけれど、じゃあどうしたいのと自分に問いただしてみると一年前のざらついた感情には二度と触れたくないということだった。今でもはっきりと覚えている。そう簡単に美化なんて出来ない。それでも、絶対に戻りたくない過去があるということは前に進んだという成果になるんだろう。

わりと鬱々としていた気分を父にぼやいたら、「今の環境に慣れてくるとそれはそれで落ち込みがあっても不思議ではない気がする。あなたの場合、過去を乗り越えていかなければならないので気持ちの整理と次の一歩を踏み出すのに時間がかかると思っています。あまり励ましにならない励ましかもしれませんがのんびりやりましょう。」と返信があり、ああそうかと納得した。今いる場所での浮き沈みがあることを私はあまり受け入れられていなかったけれど、ようやく自分のデフォルトになりかけているからそこで感じるものがあって当然なんだ。どこにいっても何か不安を探してしまう自分の受け止め方が間違っている気がして認められなかった。でもきっと普通のことなんだな。肩の力が少しだけ抜けたのを感じた。

それならもう歯止めをかけることなく感情に従ってみようと試みてわかったのが、心を泳がせておくと移り変わりがものすごく激しいことだった。わずかな希望が見えて大丈夫だと思った数時間後にはもう取り返しのつかない場所にいると暗くなって沈んでいく。その変化が目まぐるしくて、でも自分の不具合に素直になるのが新鮮で、しばらく続けていたらなんとなく落ち着いてきた。誰かの機嫌のために自分の不調を飲み込んで調整する必要なんてないんだよ。

私に手を差し伸べてくれるのはいつだって本、「ミエコのこと」の記事でも少しふれたけれど、観察をつづけるというエッセイにひどく感銘をうけたのも同じ頃。
 
 
“まだ若い頃は、なにか困難があったとき、耐えられないような感情にくるしめられたとき、その渦中にいながらも、少し時間がたてば(あるいは同時に)そこから何を学べるか、ということをおそらくいつも考えていたように思う。そこから何を学べるか。人生に疑いようもなく前方があると信じている人間の考えそうなことですね。何を学べるか。おまえはそこから何を学ぶのだ?それを誰かに試されているような気が、ずっとしていたものだった。
でも今は、こういう状況に陥ったとき、そこから学ぶことには興味がない。
ただ少しずつだけれども確実に変化してゆく感情や状況をつぶさに観察しなければならないとだけ思っている。どんなふうに出来事を忘れ、どんなふうに悲しくなくなり、それがどんな斑をつくり、どんなふうに日常が濃く、もどってくるのか。どんなふうに記憶はうつろい、あらわれ、処理され、忘れ、平気だった暗闇があれだけおそろしくパニックを起こしていたのにやがて平気になり、どんなふうにあんなに混乱していた感情や思い出をふりかえるようになるのか。そこに何の、どのような動きがあるのか。この点にかんしては言葉にあまり期待はできないものだし、ちゃんと書けたと思った時点でそれは駄目になってゆくものだから、せめて自分がそれをどれだけ精確に観察したか。しようとしたか。おまえは観察したのか?それだけを、試されている気がする。

共通しているのは、それを誰かから試されていると思うことだ。
でも誰から?試されるとは?すべて、なんのために?”

(川上未映子 魔法飛行 観察をつづける より)
 
 

私は昔から悲観的になってしまう性質でそれをねじ伏せるように他者からの評価でバランスをとっていたような気もするけど、ある時期からネガティヴに対する嫌悪とそういう自分を求められていないという他者目線が加わり、ポジティヴ路線への変更を余儀無くされていた。もちろんそうなれたらいいのにという憧れもあった。でもどこかで窮屈だった。無理してんな自分、というのを昔の文章を読んでいても感じることがある。
「つらいことにはきっと理由がある、と考えなければならない、つらいことが起こった原因と乗り越える意味を明確にして噛み砕いてこそ、そのつらいことが私を成長させてくれる、意味のあることになる、そもそもつらいと感じる私が間違ってるのかもしれないのでもう一度本当にそれがつらいのか、相手がつらくさせようと意図的なものなのかちゃんと考えて」という長っったらしく鬱陶しい思考を植えつけていたので、そしてまあつまらないほどに真面目なものだから全てのつらいことに対してそれをあてはめてしまっていた。事あるごとになぜ私はこんなにも試練が降り注ぐのか、それほどまでに駄目な人間なのか、などと考え込んでしまう。それがもうつらい。

穏やかな生活を続けることで、ようやく気づいたことがある。世の中にはかけられるべきではなかった言葉や抱く必要がない感情なんてのが溢れている。なにもかもに意味があるなんて、そんなわけないだろう。
無意識に吐き出された言葉だって受け取り側からしたらひどく狼狽してしまうことも、すべて受け取り側の問題なのだろうか。攻撃になってしまっていることに気づかない人が他者に対しても同じことを普通と思って投げつける。跳ね返す力がなかったとしたら、力不足だと一瞥をくれて終わる。それは正しいのか?それが正しいのか?
何をどこまでどう受け取るかなんてさじ加減は人それぞれだし、簡単にギアチェンジなんて出来ないけど、それでも起こることすべて自分にとって意味があると都合よく考えるポジティヴシンキングなんてのは生まれ持った性質であり無理してするべきことではないのだ、とミエコが教えてくれた。

すべてを忘れて、つらかったことを風化させて、糧になったことだけ自分の中に残すなんて、私にはそんな器用なこと出来ない。幾度となく経験した、あまりにも強い不安や孤独、この先に起こりうる恐怖から心臓が冷えて真っ二つに割れて一目散に両足の爪先に滑り降りていく感覚なんて、二度と思い出したくないけれど絶対に忘れられないのだ。でもきっとそういう気持ちを持ち続けていくからこそ、忘れられないからこそ、今そばにいてくれる人たちの存在をより身近に感じられたり、新しく出会う人たちに対して柔らかな思いやりをもって接することが出来るのではないだろうか。

だから私はちゃんと観察しようと思う。
心の弱さを掌握し、それを恥じることなく自分の一部だと認識すること。
どんな気持ちも誤魔化さず、心が揺らぐことにも正直に、無理に回復を望んだりすることなく、偽りのない生活を続けていくことで自分の内側に起きる変化を。
願わくば、少しずつでも過去の感情が均質化されていくことを。

 
 
 
 

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